音と動きが紡ぐ希望:身体障がいのある方への音楽療法事例
はじめに
音楽療法は、その音の持つ力、リズム、メロディーを用いて、クライアントの心身の健康やQOL(Quality of Life:生活の質)の向上を目指す専門的なアプローチです。特に、身体に障がいを持つ方々にとって、音楽は単なる BGM ではなく、身体機能への働きかけ、コミュニケーション手段の獲得、感情表現の促進など、多岐にわたる可能性を秘めています。
本記事では、身体に障がいを持つ成人男性への音楽療法を通して、音と動きがいかにクライアントの希望となり、具体的な変化をもたらしたのか、その一事例をご紹介いたします。
事例紹介:A氏(仮名)、40代男性
クライアントのA氏は、脳血管疾患の後遺症により、右半身に麻痺があり、歩行や細かい手の動きに制限がありました。また、失語症もあり、言葉でのコミュニケーションが困難な状況でした。日中の活動量も少なく、意欲の低下も見られることが課題でした。
A氏への音楽療法セッションは、週に一度、30分間実施することになりました。セッションの目標は、残存機能の活用を促し、身体活動の促進、そして非言語的・言語的なコミュニケーションの機会を増やすことに設定しました。
音楽療法の実際:音と動きへのアプローチ
セッションは、まず音楽療法士の歌とギター伴奏による馴染みのある童謡や歌謡曲から始まります。A氏は初め、椅子に座ったまま、表情に大きな変化を見せることはありませんでした。
そこで音楽療法士は、A氏の身体の動きを引き出すために、リズム楽器(マラカスやタンバリンなど)を用いることを試みました。麻痺のない左手でマラカスを持ってもらい、音楽に合わせて振ることを促しました。最初は小さな動きでしたが、音楽療法士がA氏の動きに合わせて伴奏のリズムを調整したり、歌のテンポを変えたりすることで、A氏の動きが少しずつ大きくなっていきました。特に、アップテンポでリズムがはっきりした曲では、A氏の腕の振りや足踏みが自然に引き出される様子が見られました。
また、失語症のあるA氏とのコミュニケーションを深めるために、歌唱に加えて、音楽療法士が質問を歌に乗せて投げかけ、A氏が音やジェスチャーで応えるという方法を取り入れました。例えば、「この曲知っていますか?」と歌いながら問いかけ、A氏が知っているようであれば、音楽に合わせてうなずくなどの反応を促しました。
あるセッションでのことです。音楽療法士がA氏の好きな昔の歌謡曲をギターで弾き始めると、A氏は左手でリズムを取り始めました。そして、歌の途中で、これまで聞かれなかった小さな声で、歌の最後の部分を口ずさんだのです。それは明確な言葉ではありませんでしたが、メロディーとリズムに乗った「声」でした。その瞬間、A氏の表情がわずかに明るくなり、音楽療法士もA氏も、言葉にならない喜びを感じることができました。
音楽療法士の視点
A氏への音楽療法では、麻痺のある身体への直接的なアプローチというよりは、残存している左手の機能や、音楽への反応を通して、身体全体の活性化を目指しました。特に、リズムやテンポを意識的に調整することで、意図せずとも身体が音楽に反応する瞬間を作り出すことに重点を置きました。
また、失語症というコミュニケーションの壁に対して、音楽は非常に有効なツールとなりました。音やリズム、メロディーが言葉を補い、あるいは言葉以上の情報を伝える媒体となり得ます。A氏が声を出せたあの瞬間は、音楽が内面の感情や記憶を引き出し、表現を促す力を持つことを強く実感した出来事でした。
音楽療法士としては、クライアントのその日の状態や反応を注意深く観察し、柔軟にセッション内容を変化させる重要性を改めて認識しました。A氏のわずかな変化も見逃さず、それを肯定的に捉え、次のアプローチに繋げていくことが、クライアントの自信や意欲の向上に繋がるのです。
音楽療法がもたらした変化
数ヶ月間の音楽療法を通して、A氏にはいくつかの変化が見られました。まず、セッション中に音楽に合わせて身体を動かすことが増え、特に左手の動きが以前よりもスムーズになりました。また、セッションのある日は、日中の活動量が増えるなど、全体的な意欲の向上も見られました。
何より大きかったのは、コミュニケーションにおける変化です。歌に乗せて言葉を出すことがわずかではあっても可能になり、音楽療法士との間に新たな非言語的・半言語的なコミュニケーションの道が開かれました。これは、A氏が自身の感情や意思を表現する機会が増えたことを意味します。
結びに
この事例は、音楽療法が身体機能へのアプローチだけでなく、コミュニケーション、感情表現、そして生きる意欲といった多角的な側面に働きかけうることを示しています。音と動きが紡ぎ出す音楽療法は、身体に障がいを持つ方々にとって、希望を見出し、自身の可能性を再発見する力となり得るのです。
音楽療法士の専門性と創意工夫、そしてクライアントの秘めた力が、音楽という媒体を通して結びついたとき、そこに確かな変化と感動が生まれることを、この事例は教えてくれます。音楽療法に興味を持つ方にとって、このような具体的な事例が、この分野への理解を深め、自身の将来を考える一助となれば幸いです。