響きが心を開く:感情表現が困難な方との音楽療法事例
はじめに
音楽療法は、音楽が持つ力を用いて、人々の心身の健康や生活の質の向上を目指す専門的なアプローチです。その効果は多岐にわたりますが、特に感情の表出や他者とのコミュニケーションにおいて、音楽が橋渡しとなる事例が多く見られます。今回は、感情表現が困難であったクライアントが、音楽療法を通して少しずつ心を開き、変化を遂げられた一つの事例をご紹介します。
クライアントの背景と初期のセッション
今回ご紹介するのは、成人男性のAさんです。Aさんは、過去の経験から感情を表に出すことが非常に少なく、他者との関わりを避ける傾向が見られました。音楽療法セッション中も、表情の変化は乏しく、言葉による応答も最小限でした。音楽療法士は、Aさんが安心して自己表現できる場を提供することを第一の目標とし、Aさんのペースに合わせてセッションを進めることにしました。
初期のセッションでは、Aさんがどのような音楽に興味を示すか、どのような楽器に触れたいかを探ることから始めました。Aさんは当初、楽器に積極的に触れることはありませんでしたが、音楽療法士が奏でる穏やかな音楽に耳を傾けている様子でした。特に、ハープやライアーといった、柔らかく響く楽器の音色に反応が見られました。
音楽による静かな対話
Aさんの反応を踏まえ、音楽療法士は、Aさんが心地よく感じられる音環境を作ることに注力しました。セッションの冒頭では、ゆったりとしたテンポで、Aさんの呼吸や空間の雰囲気に合わせた即興演奏を行いました。言葉での対話が難しい状況で、音楽がAさんと音楽療法士との間の「静かな対話」のツールとなったのです。
あるセッションでのことです。音楽療法士が静かにハープを奏でていると、いつもは無表情なAさんの顔に、わずかに力が抜けたような表情が見られました。音楽療法士はその変化を見逃さず、音量を少し小さくしたり、テンポをよりゆっくりにしたりと、Aさんの反応に寄り添うように演奏を続けました。すると、Aさんは目を閉じ、音楽に身を委ねているようでした。このような微細な変化から、音楽がAさんの心に触れ、安心感をもたらしている可能性が示唆されました。
響きが促した変化
セッションを重ねるうちに、Aさんには少しずつ変化が現れ始めました。最初は音楽を聴いているだけだったAさんが、ある時、音楽療法士が鳴らしていた小型のパーカッションに静かに手を伸ばしました。その小さな一歩を大切に受け止め、音楽療法士はAさんが自由に音を出せるように促しました。Aさんが叩くリズムに合わせて音楽療法士も演奏をすることで、音楽を通じた相互作用が生まれました。
さらに数週間後、Aさんは音楽療法士の演奏に合わせて、非常に小さな声ではありましたが、初めて自ら音を発しました。それは歌というよりは、音楽の響きに呼応するような「声」でした。この瞬間は、Aさんが内側に留めていたものを、音楽の力を借りて外へ表現しようとした、非常に重要な一歩でした。
変化はセッションの外にも及びました。以前は他者との関わりを徹底的に避けていたAさんが、他の利用者の方と短い挨拶を交わすようになったり、言葉数は少なくとも、自分の気持ちを少しだけ職員に伝えようとしたりする様子が見られるようになったのです。これらの変化は劇的なものではありませんでしたが、Aさんにとっては大きな前進でした。音楽療法士は、セッションで見られる微細な変化や、Aさんが音楽にどのように反応しているかを慎重に観察し、次のアプローチを検討しました。Aさんが安心して自己表現できる環境を維持しつつ、少しずつ他者との音楽的なやり取りを促すなど、段階的な働きかけを行いました。
まとめ
この事例は、言葉や直接的な感情表現が難しい状況においても、音楽がクライアントの心に寄り添い、内なる変化を促す力を持つことを示しています。Aさんの事例では、穏やかな音楽環境が安心感を生み出し、そこから生まれた微細な音楽的やり取りが、やがて感情表現や他者との関わりへの小さな一歩に繋がりました。音楽療法士の役割は、単に音楽を提供するだけでなく、クライアント一人ひとりの状態を深く理解し、音楽を通してその人らしい自己表現を支え、可能性を引き出すことにあると言えるでしょう。音楽療法は、目には見えにくい心の動きに寄り添い、その人らしい響きを引き出すための希望の光となり得るのです。