メロディーが繋ぐ心:コミュニケーションが苦手な子供への音楽療法事例
音楽が拓くコミュニケーションの扉
音楽は、言葉を持たない、あるいは言葉での表現が難しい人々の心にも直接響き、様々な変化をもたらす力を持っています。特に、発達の途上にあり、コミュニケーションや他者との関わりに困難を抱える子供たちにとって、音楽療法は自己表現の手段を提供し、他者との相互作用を促すための大切なツールとなり得ます。ここでは、言葉によるコミュニケーションが苦手だった一人の子供が、音楽療法を通じて心を開き、他者と繋がり始めた事例をご紹介します。
A君との出会い:静かで閉ざされた世界
私がA君(6歳、仮名)と初めて会ったのは、地域の児童発達支援センターでした。彼は診断名としては特定のラベルは付いていませんでしたが、発語が非常に少なく、問いかけに対する応答もほとんどありませんでした。他者と目を合わせることも少なく、自分の世界に閉じこもりがちな印象でした。集団活動には参加せず、一人で同じおもちゃを繰り返し操作していることがほとんどでした。保護者の方からは、「自分の気持ちを言葉で伝えられず、時に強いこだわりや癇癪が見られる」というお話も伺いました。音楽は特に好きでも嫌いでもない様子で、セッションに誘っても無関心といった態度でした。
音楽療法士のアプローチ:彼の「音」に耳を澄ませる
A君の最初のセッションでは、まず彼がどのような音や楽器に反応を示すのかを注意深く観察することから始めました。私は様々な楽器(鍵盤楽器、打楽器、弦楽器など)を準備し、優しく音を鳴らしたり、簡単なメロディーを奏でたりしました。A君は初め、私の存在や音には無関心な様子で、部屋の隅にあるおもちゃに目を向けていました。
しかし、私が柔らかな音色のカリンバをゆっくりと奏で始めた時、A君の視線がわずかに楽器の方へ向いたように見えました。私はその音を続けながら、彼の様子に合わせて音量やテンポを変化させていきました。次に、小さな太鼓を彼の近くに置き、私が軽く叩いてみました。すると、A君はおもちゃから手を離し、じっと太鼓を見つめました。私は言葉ではなく、音で彼に問いかけるように、様々なリズムパターンを叩いてみました。しばらくして、A君は太鼓に手を伸ばし、とても小さな音で「トントン」と叩き始めたのです。それは彼からの、初めての応答でした。
この小さな応答を捉え、私は彼の「トントン」というリズムに合わせて、私も太鼓を叩いたり、声で「トントン、いいね」と応えたりしました。彼の叩くリズムが速くなれば私も速く、遅くなれば私も遅く、まるで音で会話をするかのように応答的な関わりを続けました。このセッションを通じて、私は「音」がA君の世界への扉を開く鍵となる可能性を感じました。
以降のセッションでは、A君が興味を示した太鼓や他の打楽器を中心に使いながら、彼の自発的な音や動きに寄り添うことを大切にしました。彼が太鼓を叩けばそのリズムに合わせ、マラカスを振ればその揺れを音楽で表現しました。彼の出す「音」そのものを肯定し、共感的に応答することで、彼は少しずつ安心して自己表現をするようになりました。
見られた変化:音から言葉へ、そして他者へ
数ヶ月が経つにつれて、A君には目に見える変化が現れ始めました。最初は小さな音でしか叩けなかった太鼓を、感情を込めて強く叩くこともできるようになりました。私が歌う簡単な歌に合わせて、カスタネットをタイミングよく叩くことも増えました。
そして、最も印象的だったのは、セッション中に「もっと」や「かして」といった言葉を、ジェスチャーとともにですが、発するようになったことです。特に、気に入った楽器をもっと演奏したい時や、私が持っている楽器を使いたい時に、音やジェスチャーに加えて、言葉で伝えようとする姿が見られるようになりました。
また、セッションの終わりに私が「終わりの歌だよ」と歌い始めると、最初は無関心だった彼が、私の歌に合わせて手拍子をするようになったのです。これは、他者との共同的な活動に参加し、音楽を通じて時間を共有していることの表れでした。私と目を合わせる時間も増え、私が笑顔で語りかけると、照れたように微笑むこともありました。
これらの変化は、音楽という非言語的な手段が、A君の自己表現を促し、他者との関わりを持つことへの安心感と意欲を育んだ結果だと感じています。彼にとって音楽は、言葉の壁を越えて自分の内側にあるものを表現し、他者と心を通わせるための大切な言語となったのです。
音楽療法士のやりがいと専門性
A君の事例は、音楽療法がコミュニケーションに困難を抱える人々にいかに有効であるかを示しています。彼が初めて太鼓を叩いた小さな「トントン」という音から、言葉での要求や他者との協調的な手拍子へと繋がったプロセスは、音楽が持つ可能性の大きさを物語っています。
音楽療法士の仕事は、クライアントの現状を的確に把握し、その人に合った音楽的なアプローチを計画・実行することです。そして何よりも、クライアントの小さな変化やサインを見逃さず、それに応答し、共に音楽を創造していく共感的かつ専門的な姿勢が求められます。A君とのセッションでは、彼の出す「音」そのものが彼自身の言葉であり、感情の表現でした。その音に耳を澄ませ、尊重し、音楽で応答することで、彼の内面に働きかけることができたのです。
音楽が紡ぐ未来への希望
音楽療法は、単に音楽を楽しむことだけではありません。それは、音楽を意図的かつ専門的に活用し、クライアントの心身の健康やウェルビーイングに働きかけるプロセスです。A君の事例のように、言葉のコミュニケーションが難しい子供たちにとって、音楽は自己を表現し、他者と繋がるための新しい道を開いてくれます。
音楽療法士は、その専門性をもって、一人ひとりのクライアントに寄り添い、音楽の力を借りてその人が本来持っている力を引き出すお手伝いをします。この仕事には、クライアントの成長や変化を間近で見守るという、何物にも代えがたい感動とやりがいがあります。音楽療法が、より多くの人々の心に希望と光を灯すことができるよう、私たちはこれからも学び、実践を続けていきたいと考えています。