歌声が呼び覚ます記憶:認知症高齢者との音楽療法事例
音楽が拓く、認知症高齢者の世界
認知症は、記憶や認知機能の低下により、日々の生活に様々な困難をもたらす疾患です。特にコミュニケーションの障害は、ご本人だけでなく、周囲の方々にも大きな影響を及ぼします。言葉をうまく見つけられなくなったり、感情を表現しにくくなったりすることで、孤立感や不安が増すことも少なくありません。
このような状況において、音楽療法は非言語的なコミュニケーション手段として、また感情や記憶に働きかける有効なアプローチとして注目されています。言葉の壁を越え、過去の記憶や感情と繋がるきっかけを生み出す音楽の力は、認知症の方々のQOL(生活の質)向上に貢献できる可能性を秘めています。
ここでは、ある認知症のクライアントとの音楽療法セッションを通して見られた、感動的な変化の事例をご紹介したいと思います。
音楽療法が引き出した声:Aさんの事例
クライアントのAさんは、80代後半の女性です。数年前にアルツハイマー型認知症と診断され、施設に入所されていました。普段は無口で、ご自身から言葉を発することはほとんどありませんでした。問いかけに対しても、うなずいたり首を振ったりする程度で、表情も乏しい印象でした。ご家族は、以前は明るく歌うことが好きだったAさんの様子を見るにつけ、寂しさを感じていると伺いました。
音楽療法では、まずAさんの様子を丁寧に観察することから始めました。穏やかな音楽を流すと、少し目を開けられる様子が見られましたが、特に反応を示すことはありませんでした。そこで、Aさんが若い頃によく親しまれていたであろう童謡や唱歌を、ギターの弾き語りでゆっくりと歌ってみました。
「ふるさと」「赤とんぼ」「朧月夜」…。幾つかの曲を歌い進めるうち、「赤とんぼ」のメロディが流れた時、Aさんの表情にわずかな変化が見られました。遠くを見つめるような視線になり、口元がかすかに動いたのです。音楽療法士は、Aさんのペースに合わせ、同じ曲を繰り返し、また異なる調やテンポで試しながら、Aさんの反応を待ちました。
歌声が記憶の扉を開く
数回のセッションを経て、「赤とんぼ」や「ふるさと」といった馴染み深い曲を歌う際、Aさんの口元が以前よりもはっきりと動くようになりました。そしてある日、「ふるさと」の2番を歌っていた時、Aさんの口から、かすれた声で言葉が紡ぎ出されました。「…志を…はたして…」
その瞬間、音楽療法士は息をのみました。普段、ご自身から言葉を発することのないAさんが、歌に乗せて歌詞を口にされたのです。それは、音楽がAさんの深い記憶に働きかけ、言葉を引き出した感動的な瞬間でした。
この出来事を機に、Aさんは他の馴染みのある曲でも、少しずつ歌詞を口ずさむことが増えていきました。完璧な歌詞ではありませんでしたが、メロディに合わせて声を発される様子は、以前の無表情だった姿とは全く異なっていました。歌うことに伴って、表情も豊かになり、穏やかな笑顔を見せることもありました。
音楽がもたらす変化と可能性
Aさんの事例は、認知症によって言葉を失いかけた方でも、音楽が記憶や感情にアクセスし、コミュニケーションのきっかけとなり得ることを示しています。音楽は、単なる音の羅列ではなく、個人の人生経験や感情と深く結びついています。特に、過去に親しんだ音楽は、当時の記憶や感情を呼び覚ます力を持つことがあります。
音楽療法士は、クライアント一人ひとりの人生背景や音楽の好み、その日の状態を sensitively に把握し、どのような音楽が響くかを丁寧に探っていきます。そして、歌うことだけでなく、楽器演奏、音楽を聴くこと、音楽に合わせて体を動かすことなど、様々なアプローチを通して、クライアントが自己を表現し、他者と繋がる機会を創出します。
Aさんのように、失われたと思われていた能力が音楽によって引き出されることは、音楽療法の現場では時に見られます。これらの事例は、認知症と診断されても、その方の心の中には豊かな経験や感情が息づいており、音楽はその扉を開く鍵となり得ることを教えてくれます。
もちろん、全ての認知症の方に同じような劇的な変化が起こるわけではありません。しかし、音楽がもたらす心地よさや安心感、そして音楽を通して他者と心を寄せ合う体験は、認知症の進行を穏やかにしたり、日々の生活に彩りを与えたりする上で、非常に価値のあるものです。
この事例が、音楽療法の可能性、そして音楽が持つ温かい力について考える一助となれば幸いです。